任侠映画に関するメモ
任侠映画といえば東映作品というイメージはもはや拭いようがない。しかし、他社にも良作はある。
ここでは任侠映画を、明治から昭和初期の時代設定で、渡世人、博徒、テキ屋の世界を描いた作品としておく。例えば長谷川伸による「瞼の母」や、清水次郎長を扱ったものは、股旅物というカテゴリーにでも入れて、任侠映画としては扱わない。同様に、戦後のヤクザ社会を描いた作品群も含めない。
わかりやすい例を東映作品の中から挙げれば、「昭和残俠伝」シリーズを含めるが、「仁義なき戦い」シリーズは含めないということである。
日活の任侠作品としては、高橋英樹主演の「男の紋章」シリーズが筆頭に挙げられるだろう。
高橋英樹に対しては、少年期から、日活を離れてからのTV時代劇での活躍をリアルタイムで見ていたので、時代劇俳優という印象を持っていた。しかし、そのルーツは時代劇のイメージのかけらもない日活だったのである。
1944年生まれ。61年、日活に第5期ニューフェイスとして入社し、その年に小林旭主演の「高原児」でデビューしている。「高原児」はずいぶん前にCSで観た覚えがあるが、話も高橋英樹もあまり印象に残っておらず、思い出せるものがない。しかし、その後赤木圭一郎作品のリメイクに主演するなど、高橋に求められるものは多大であったと想像される。
「高原児」の封切りが61年8月13日。その年の2月、すでに赤木圭一郎が亡くなっている。石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩二からなる「ダイヤモンドライン」と呼ばれる男性スター陣の一角を失い、まず宍戸錠を、次いで二谷英明を加えて体勢を立て直そうとしていた時期だが、赤木の抜けた穴はかなり大きかったに違いない。
よって高橋英樹を早く売り出したかったのは当然だろうが、体型的にそれまでの日活のスターたちとは異なり、体格はよいが脚は長くなかった。無国籍映画のアクションでは映えなかったのだろう。そんな高橋英樹を売り出す策として、1963年7月、「男の紋章」が公開された。
任侠映画ブームの幕開けは東映の「人生劇場 飛車角」とされるが、その公開は1963年3月。そのヒットを受けて東映が鶴田浩二の「博徒」シリーズ、高倉健の「日本侠客伝」シリーズで任侠映画路線を本格化させるのは1964年であるから、それらよりは男の紋章のほうが一歩先んじているのである。
さらに、博徒、やくざを主役に据えたプログラムピクチャーとしては大映の「悪名」シリーズが1961年から69年まで続いており、こちらの方が先行しているわけで、「悪名」や「男の紋章」があまり顧みられず東映作品ばかりがなぜ任侠映画の代表として扱われているのか、当時を知らない者には不思議に映る。小林信彦さんが何かの本に記していた、抱えている役者の層の厚さにものを言わせたオールスター・システム―緋牡丹博徒シリーズに若山富三郎と高倉健が出演し、昭和残侠伝には高倉健、池辺良に藤純子が加わるといった―がその強さの一因なのだろうが、他社の良作が正当に評価されていないように感じられる現状は、私には少し面白くないのだ。
さらに、博徒、やくざを主役に据えたプログラムピクチャーとしては大映の「悪名」シリーズが1961年から69年まで続いており、こちらの方が先行しているわけで、「悪名」や「男の紋章」があまり顧みられず東映作品ばかりがなぜ任侠映画の代表として扱われているのか、当時を知らない者には不思議に映る。小林信彦さんが何かの本に記していた、抱えている役者の層の厚さにものを言わせたオールスター・システム―緋牡丹博徒シリーズに若山富三郎と高倉健が出演し、昭和残侠伝には高倉健、池辺良に藤純子が加わるといった―がその強さの一因なのだろうが、他社の良作が正当に評価されていないように感じられる現状は、私には少し面白くないのだ。
こんなことを書いているのは、やはり私は日活びいきであるし、子供のころは大映の特撮作品を愛していたりもしたから、「男の紋章」や「女賭博師」シリーズをもうちょっと評価すべきだと訴えたいだけなのだろうが…。
改めて「男の紋章」シリーズ全作品を観ねばならないのではないか―未見の作品もあるし―と考え始めている。
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