笑福亭たま独演会@貝塚市コスモスシアター
貝塚市の市民会館というべきホール、コスモスシアターで、7月6日土曜に笑福亭たま師の独演会を鑑賞した。たま師は、昨年秋の東西若手落語家フェスティバルで初めて生で聴いたが、貝塚市出身であり、地元コスモスシアターでは定期的に独演会を開催しておられるほか、ちょくちょく会を催しておられるのである。そういえば今年の正月は市制何十周年とかのイベントにも出演されていたがそちらは見ていない。
今回は、たま師の師匠である笑福亭福笑師をゲストに招き、師弟トークコーナーも設けての公演である。福笑師はYoutubeで非常にアクの強いネタを拝見したことがあるが、生で聴くのは初めてだ。
市役所があって隣にコスモスシアター、その手前のロードサイドにコメダ珈琲があり、そこで昼食を摂ってから公演に臨んだが、量が多いと事前に聞いていたよりもなお多いコメダのおかげでこれは寝てしまうかもしれないと危機感を覚えたものの、家内が「たまさんだったら寝ないでしょう」と。なるほど確かにたま師の落語では眠気も吹き飛ぶかもしれないと思いつつ、席に着いた。
開口一番は同じ泉州地域、阪南市出身の桂雪鹿さん。昨年秋の東西若手落語家フェスティバルの時と同様、まずはマクラで携帯電話のマナーモードの真似をして電源を切るようお願いをされる。木のテーブルなどの上、懐やカバンに収めた状態での振動音の変化をうまく表現して感心させられる。
ネタは「平林」。今時考えられないあほな噺だが、十分に座を温められたと言えようか。
たま師の一席目は「殺生禁断の池」。「あまりかからないネタ」とさらっと紹介されたが、江戸でいうところの「唖の釣り」である。東京で生で聴いたことのあるネタだが、コンプライアンス云々など何かとうるさい当節ではかけづらいのは確かだろう。
とは言え、窮地に陥った男が、とっさに役人に問い詰められて言葉がうまく出ず、それを口が利けないようだと相手が勘違いしてくれたので、そのまま口が利けないふりをしてしゃべらずに身振り手振りで押し通そうとする、という流れそのものには、差別的な要素は感じられない。むしろ、「唖の釣り」という江戸でのタイトルそのものがこのネタが世に出づらい原因ではあるまいか。
「殺生禁断の池」という題名でそうしたニュアンスは和らぐわけで、さらに、身振り手振りの滑稽さを誇張したり現代的なアクションを加えたりしながら純粋に笑いに持っていくあたり、さすがたま師と言えようか。
続いてゲストの福笑師。会場の中だけにしておかないとやばい…実際やばいのでこういう辺境のブログであっても書けない…マクラからして面白すぎる。ネタは自作「宿屋ばばぁ」。細かいジャブのようなくすぐりの連発であるが、ひとつひとつのジャブが重くて効く。時間の関係だろう、途中で切って下がられたが、場内爆笑、これはこの後のたま師もなかなか大変ではないかと余計な心配までしてしまう面白さだった。
来場者から集めた質問に答えていく師弟のトークショーを挟んで、締めの一席はたま師の「船弁慶」。長屋の夫婦の喧嘩が面白い。私の落語に対する判断基準のひとつに、おかみさんをうまく演ずる噺家さんは上手、というのがあって、この点でもたま師は非常に素晴らしいと思う―いや、思い返してみれば、あれは長屋のおかみさんというより、典型的な大阪のオバハンだったかもしれないが―。で、楽しく聴いて行って、驚いたことにサゲが意外なものだった。
いつどこでだれの、という、ちゃんと聴いた覚えがないものの、あらすじは覚えているネタである。能の「船弁慶」を題材とし、能も芝居の一種と捉えれば広い意味で「芝居噺」と呼んでも差し支えないような噺で、クライマックスではその能のまねごとを始めるはず…が、まったくその件が出てこないのだ。福笑師がトークショーで、「このネタといえばこの人、というイメージが固まっているネタはやらない」ということと並んで、「歌舞伎に詳しいわけではないので芝居噺はやらない」と仰っていたのだが、噺家さん以上に、オーディエンスの側が扱われているジャンルに明るくないと噺そのもの、あるいは面白さのツボを理解しづらい、あるいはできないケースもある。そう、これは、歌舞伎以上に触れる機会の少ない能を題材にした噺、サゲは今の時代には難しいと考えたたま師なりの改変に違いない。
そういう創意工夫、ちょっとした一言をさりげなく添えてオーディエンスの理解を促したりという気配りが、ところどころにちりばめられているようで、そんなところも非常に好感を持てる噺家さんである。
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