「修羅の剣士」について、もっと書いておきたい。

2016年、中国・香港製作の武侠映画「修羅の剣士」について。
日本公開は2017年初夏。シネマート新宿で鑑賞。
原作は台湾の武侠小説家、古龍の小説「三少爺的剣」(1975)で、1977年、香港のショウブラザースがにより映画化されている。この時は、監督に楚原、主人公に爾冬陞(イー・トンシン)を配し、その他、デヴィッド・チャン、ティ・ロン、ロー・リエ、岳華と言ったトップスターが客演。なかなか豪華な顔ぶれだ。
そのイー・トンシンが監督、脚本(ツイ・ハークと共同)を手掛けてリメイクしたのが「修羅の剣士」である。

古龍作品の多くがそうであるように、いつの時代かは、明示されていない。明代ぐらいだろう。
圧倒的な強さで武林(武術界)を支配する神剣派の若い掌門(一門の主)「三少爺(三男坊、三番目の若様であり、同時に神剣派の三番目の師範という意味)」こと謝暁峰は、当代最強と謳われていた。彼を倒して最強の座を勝ち取ろうと野望を抱く剣客も数多く、自ら編み出した「十三剣」で覇を唱える燕十三もその一人。折しも、自分を倒して名を上げようとする剣客を返り討ちにした燕は、富裕な女性、慕容秋狄から、かつて許嫁であった自分を捨てた三少爺を殺すよう依頼される。

燕は神剣派の本拠地を訪れるが、そこで彼が見たのは、三少爺の位牌だった。倒すべき相手を、生きる目的を失い、さらに己の余命がわずかと知った燕は、死に場所を求めてとある町を訪れ、町はずれの山中の墓場で暮らし始める。

ある時注文していた墓石を引き取りに町へ降りた燕は、やくざ者に絡まれていた若い女、小麗とその家族、そして無気力な居候の阿吉の命を偶然救ってしまう。顔に彫り物を入れた凶悪な風貌の燕を、村人は英雄と崇め、燕は残り少ない命を善行に費やそうと決意する。小麗に頼まれ、己の編み出した剣法を後世に残すべく阿吉に伝授しようとするが、実は無気力な阿吉こそ…。

主人公は三少爺なのだが、中盤まで、物語を推し進めているのは燕十三である。
剣の道でひたすら強くなることを目指し、顔に髑髏のような彫り物を施し、情を捨て、身体を酷使し、ただただ人を斬ってきた。
しかし冒頭の戦いで見事に敵を倒した彼を見て、やじ馬どもは「あれは三少爺に違いない!」とはやし立てる。世間の人々にとって剣の達人と言えばまず三少爺であり、他は皆、その他大勢にすぎないのだ。そしてそれはいつも繰り返されてきたことであり、その果てに燕のプライドは傷付き、三少爺を倒す以外の生きる意味を見失っていた。
しかしその三少爺はもうこの世にいない。しかも、長年無理を重ねてきた肉体はぼろぼろで長くはもたない。医者に処方された延命の丸薬も飲まずに置いてある。もはや何もかもどうでもよく、墓場の一角で棺桶を寝床に死を待つのみ。
そんな彼が、偶然にも貧しい村人を助けた。彼らは貧しいが皆気の良い者たちで、悪鬼のような風体の燕に対しても、その行いに対して英雄だと感謝してくれた。冷酷で傲慢な殺人者であり続けた燕が、死期を間近にして初めて、素朴な人の温かさに触れ、他者のために剣を振るおうと決意し、生まれ変わるのである。

燕を追って見るとき、この作品は魂の救済、再生の物語となる。三少爺もまた、燕によって鬱屈から解き放たれ、己の剣を用いる意味を悟る。
その後三少爺の剣は多くの人を救うだろうが、その剣に込められた魂は燕十三のものであるはずだ。

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