勢いで「パッチギ!」と「パッチギ!LOVE & PEACE」を観てしまう。

Amazonのプライムビデオで「血と骨」を観てしまったら、“在日朝鮮人もの”というか、そういう作品がおすすめに出てくるようになってしまい、井筒和幸監督の「パッチギ!」を観てしまった。
ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」を主題歌にしたことで、映画の公開当時ずいぶんと話題になっていたのだが、この歌に関しては妙な記憶がある。

中学3年生の時だったと思う。1970年代の終わり、地方の県庁所在地の、市立の中学校での出来事だ。
ある日の社会科の授業。戸田という教師が、冒頭、プリントを配った。
刷られていたのは、簡単な楽譜と、歌詞らしき文章。頭のところに曲名が書いてあったが、「イムジン河」だったか、「リムジン江」だったか、覚えていない。フォークルの「イムジン河」発表からは10年ほど経っていて、いわゆる放送禁止歌であったから、私たちはその歌を知らなかった。後にフォークルの「イムジン河」と曲を取り巻く出来事について知り、それが社会的にある程度影響のあった「事件」であったことから、「イムジン河」だったと思い込んだのだろう。
それはさておき、戸田は、自ら歌ってメロディを覚えさせ、続いて歌わされた。何度か繰り返されたと思う。当時、高校受験はそれほど激しいものではなく、大半の生徒は自分の成績に応じて、県立の普通科か商業科か工業科を選び、失敗したら私立へ行く、そんな土地柄だった。だから三年生の授業と言っても、のんびりはしていたのだろう。私たちも特に騒いだりしなかった。もっとも、今どきこんなことがあったら大問題になるだろうが。

「パッチギ!」を観てから気づいたのだが、その時教えられたのはフォークルのバージョンではなかった。何番だったかはっきりしないが、戸田は、「イムジンの流れよ 伝えておくれ」と歌っていた。映画の中で歌われる、松山猛が訳し補作したフォークル版には、そんな個所はなく、三十数年を経て不思議に感じた。調べてみると、どうも戸田が教えたのは、もともと北朝鮮でプロパガンダのために作られた原詞により近い訳詞(記憶が混濁しているが件の部分の詞は「イムジンの流れよ」ではなく「リムジンの流れよ」だったのだろう)だったようだ。
歌うだけでなく、戸田は何か長々と話したと思うが、覚えていない。ただ、今になって、彼が教えたのがフォークル版ではなかったことを知ると、彼は北を支持していたのだろうな、とは思える。中朝への謝罪と賠償の必要性を訴えたのか、次世代の左翼活動家を育てたかったのか。正義感と使命感にかられただけだったか。
在日朝鮮人の同級生は普通にいて、普通に接し、私たちの多くは現実の社会において差別意識など持たずにいたが、このような教育と、対極にある親や祖母世代の差別的な言動に挟まれて、折に触れそこはかとない加害者意識を植え付けられていたように思う。慰安婦という言葉は比較的新しい気がするが、強制連行らしき物言いはあったし、「彼らは被害者である」ということは、事実として周知されていた時代だ。

井筒監督はメディアを通してみる限り奇矯というか、韓国や在日朝鮮人以上に日本を悪と決め付け朝鮮半島や中国への謝罪と賠償の必要性を訴える人だ。私よりは年が上だが、同じような刷り込みを受けたか、より一層強烈だったのだろうか。そして、一方的に受け入れてしまったのだろうか。自分もあのようになっていた可能性があるだけに、それだけで彼を全否定してはいけないという気になってしまう。
それに、「岸和田少年愚連隊」は、なかなか良い映画だった。ただけんかに明け暮れ、やられ、やり返す毎日を送る少年たちのだるい日常を、「Get It On」にうまく乗せた佳作だった。
故に、不快になる可能性は高いと思えるものの、観ることにしたのだった。

舞台は1960年代後半の京都。日本人の高校生が、朝鮮高校にサッカーの親善試合の申し込みに行き、そこで出会った少女に恋をする。しかし、彼の高校と朝鮮高校との間には抗争とでもいうべき諍いが日々起きていて、しかもヒロインの兄が、朝鮮高校の番長。
恋心と、その成就の妨げになる障害をわかりやすく配置した、シンプルな映画と言ってよいだろう。
主人公を演じる塩谷瞬は、のちに妙な女性と関わって表舞台に立たなくなったが、彼の恋心を貫くためなら何でもやってやろうという純粋な衝動と行動が清々しく、微笑ましい。
友人になった朝高生の葬儀に参った主人公に、長老格の老人がいかに日本人にひどい目にあったかを語り、帰れと詰る場面には、あまりにもステレオタイプな描写に不快になりつつ失笑してしまったが…。それも主人公が乗り越えるべき壁を誇張して描いたと解釈できなくもないわけで、作品の出来を大きく損なうほどではないと言ってよいだろう。
井筒さん、妙な人ではあるけれど、本当に、若者の衝動をストレートに描くにあたっては、達者な監督さんなのではなかろうか。

そして続編の「パッチギ!LOVE & PEACE」。
前作から数年を経ているのか、「パッチギ!」のヒロインとその家族は、前作のクライマックスで生まれたヒロインの甥の難病治療のため、母の兄を頼って東京に移り住んでいた。前作の主人公とヒロインとの関係がどうなったのかはまったくわからない。何となく無かったことになっているような気がして、これはパラレルワールドなのではないかと思った。
やがて兄は、息子の治療費を稼ぐために下関で密輸を行うようになる。しかし、警察に捕まりそうになり、相棒を見捨てて東京へ逃げ帰るはめに。目標としていた金額は集まっていないようだが、替わりの策を探したりする描写はない。しかも相棒はなぜか釈放されたようで自力で帰ってくる。警察に泳がされているのならわかるが、そういうわけでもなく、このあたり、いくらフィクションにしてもひどすぎる。もはやファンタジーの域である。
一方妹は、甥の治療のために金を稼ごうと芸能界に入り、ステップアップのために枕営業までやりながら、出演した映画のテーマに納得できず、完成披露の舞台挨拶で出自を明かしそのことを訴えてそれまでの自身の苦労を無にしてしまう(かつて橋田寿賀子脚本のドラマにおいて、安田成美が出自ゆえにストーリーに悩んで降板したとされる出来事を下敷きにしているのだろうか?)。

民族も人種もさておき、主要な人物の行動があまりに幼稚で、共感も理解もできない物語だ。憤りも同情も憐憫も悲嘆も感動も興奮も無く、子どもの頃に抱えていた罪悪感が蘇るよりも先に、え、それでいいの?と言う疑問だけが宙に浮く。
兄は二度も自分を助けてくれた友人のために警察に出頭すべきではなかったろうか。そうでないなら息子のためにもっとでかい犯罪に挑むなりしてくれないと、納得できませんわな。
妹だって、仕事は仕事としたたかに演じきって甥の治療費を稼ぐべきではなかったか。
目的のために貫くべきこと、人として守るべきこと、それぞれの登場人物においてその境界(明確ではなくグレーゾーンだったとしても)が出鱈目で、その結果甥の治療費は集まっていないはずなのに、最後は病気で筋力を失ったはずの甥が一人で自転車に乗っていると言う不思議。
ところどころ、兄妹の父が招集から逃れ、南洋に逃げて米軍の襲撃にあいながら悲惨な思いをする場面が挿入され、あるいは新聞報道などで(分断された朝鮮半島を映す鏡として)ベトナム戦争の状況が知らされたりするのも、表層的にプロパガンダ色を添えるばかりで物語の深みにつながらない。
前作で効果的に使われたフォーク・クルセダーズの歌も、ここでは人物造形にもストーリーにも隙が多すぎて空しく響くばかりだし、クライマックスの乱闘シーンはあまりに唐突で意味不明で―前作や「岸和田少年愚連隊」では、確かに若者たちの乱闘シーンには惹きこまれるものがあり、それは井筒監督の“おはこ”なのかもしれないが―とても見ていられない。

前作で描かれた兄妹のその後がこれかと思うと、前作に心動かされ好意的に臨んだであろう観客の心を折り、凍らせただけのクソ映画と言っても許されるのではないか。

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