ビートたけし主演、「血と骨」。

休日はもちろん、仕事が終わって部屋に帰ってからのわずかな時間でも、Amazonのプライムビデオサービスで映画やTVドラマを観ることが多くなった。本来レンタル費がかかるそれらの無料視聴分で、プライム会員の年会費の元を取って余りある状態だ。

本やCDやデジタルガジェット同様に、プライムビデオでも、履歴に応じて「おすすめ」が表示されるのだが、1960年代の東映仁侠映画からその後の実録路線のものなど観ていたせいなのか、このところビートたけし主演の「血と骨」がやたらとリコメンドされるようになっていた。
在日朝鮮人の小説家、梁石日が父親をモデルにして書いた小説の映画化作品であるということは知っていて、監督が在日朝鮮人の崔洋一であることも知っていて、故にこうした作品において意図するとしないとに関わらず漂うであろう反日的な何か、こちらに罪の意識を抱かせる何かを嗅ぐのが面倒だなあと思いつつ、ついついクリックして視聴してしまった。

梁石日の小説では、「Z」という作品だけ、読んだことがある。細部はすっかり忘れてしまったが、第二次大戦末期から日本の降伏を経て、日本から“独立”する朝鮮半島における、朝鮮人同士の主導権争い、権力闘争が、しばしばちょっとえぐい描写を交えながら描かれていた。祖国再建の機会に臨んで団結することなく権力闘争を繰り広げた同胞の愚かさや醜さに対する、作者のフラットな視線が感じられる作品だった。そのため私たちの世代が子供のころから刷り込まれてきた「日本人は悪」「謝罪しなければならない」という意識を呼び覚まされることはあまりなかった。
そして映画化された「血と骨」においても同様に、幸いにも特に加害者意識や(その反動により増幅されている)不快感、怒りをくすぐられて、面倒な気持ちになることが無かった。



原作者の父をモデルにした主人公は、当時大日本帝国の一部だった済州島から、定期連絡線「君が代丸」に乗って日本へ渡る。作中、あとから彼は故郷で人妻を犯して男児を生ませていたことがわかり、もしかするとそうした状況で逃げ出しただけなのかもしれないが、少なくとも「強制連行」されたのではなく、自由意志で日本に来たのは間違いない。大阪には今も日本最大のコリアンタウンがあるが、それは1922年に済州島と大阪を結ぶ「君が代丸」が就航して以来、多くの朝鮮人が仕事を、チャンスを求めて大阪にやって来た結果であり、主人公もその中の一人だったのだ(かつて大阪は「大大阪」と呼ばれ、産業、経済において東京を凌駕していた。そのうえ済州島から直行便があったのだから、必然的に大阪に集まるわけだ)。

それはさておき、主人公は、ただの出稼ぎ者、夢見る若者ではなかった。異常な性欲を誇る凶暴な怪物だった。
冒頭で久しぶりに帰ってきた夫に強姦まがいに犯される妻(鈴木京香)も、原作者自身であろう息子(新井浩文)も、主人公の蒲鉾工場で働く職人も、金を借りた連中も、日本人と思しき愛人も、関わる者全てが、主人公の暴力に畏怖し、欲望に圧倒され、人生を歪められ振り回されて行った。
そしてそこにおいて鑑賞者は、国対国や民族対民族と言った大上段からの構図を意識させられることがない。視線はひたすら主人公を、「個」を追っている。ひとつの圧倒的な岩が、石ころを砕き弾き飛ばしながら転がっていく様―終盤で欠けたり逆に弾かれたりするけれど―の記録。主人公がいない場面は、やがて彼が天災や怪獣のごとく現れ暴れるまでの幕間でしかないようにさえ思えてくる。そうだ、これはビートたけしが透明な着ぐるみを着たモンスターパニック映画だと思えば腑に落ちる(終盤は別物だけれども)。

子どものころ植えつけられた恐怖心が今も抜けず、恐ろしい父親が暴れる夢を見て汗びっしょりになって目を覚ます、そんな原作者の悪夢を記録してみたら、あるいは、家というとても私的で小さな世界の出来事を粛々と描いてみたら、しかし対象があまりに特殊な人物だったためにこうなったのではないか。しかしそれを他人に見せられても、怪獣が海を越えてやってきて、暴れて、怪獣自身の病気と地上の楽園のプロパガンダによって撃退されたというお話でしかない。主人公、その息子、誰にも感情移入も理解もできないので、そんなものとして観るしかなかった。

この作品へのレビューでは、ビートたけしの大阪弁(関西弁)が下手だと言う指摘が散見されるが、うまい下手以前に、母国語が抜けない移民の大阪弁を、狙ってやったのではないだろうか。そのたどたどしさが、主人公の粗暴さや怪物性を高める一因になっていたようにも思えるのだが。

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