音楽の政治利用とかフジロックに政治を持ち込むとかのハナシ。

もう、旬が過ぎたと言っていいだろうか、ちょっと前のことだけど、フジロックにSEALDSの人なんかが出演することが発表されて、それに対して、「音楽の政治利用」とか何だとかって言う批判が、twitterあたりを中心に広がった。

そういう動きに対して、NAVERのまとめに「この世の殆んどの音楽ジャンルが「反体制」だった!?フジロック問題で喚くネット原住民が知らない現実」(http://matome.naver.jp/odai/2146628054776330801)なんていうのがあがったりして、ちょっとした殴り合いみたいになっていて、面白く眺めた。

まとめに目を通すと、ロックはその出自からして反体制的なものなのに、団塊ジュニアあたりの中年なんかがモノを知らずに「音楽に政治を持ち込むな」と喚いている、のだと決め付けているように読めた。
言いたいことはわかるけど、ロック(をはじめとする多くの大衆音楽)が政治的なメッセージと常に密接であると言うのは大嘘ではないけれど近視眼的なまとめ方であって、時と所によってそんなこともあったと言う程度ではないのか。
例えば、アメリカの軽音楽史を辿ったTV番組なんかだと、アレサ・フランクリンやオーティス・レディングが公民権運動、ブラック・エクスプロイテーションと絡めて紹介されるけれど、ジャクソン5やスプリームスといったモータウンのアイドル的なアーティストたちがそこに絡められることは無かったと記憶する。大衆音楽は、商業的な戦略にフィルタリングされたり、時代の空気感を映し出したりもするもので、出自を忘れて転変するものだ。だから、「ロックは反体制だ」と言う固定観念の方が、よっぽど非ロック的なのではないかとさえ思う。

それに、twitterの人たちの言うことに噛み付くのもどうよ、と思わなくもないし…。

また一方で、個人的には、体制迎合的なものを皮肉でなくやっちゃったりしたら―例えば中国で共産党礼賛のロックバンドが出てきて「チベットもカザフスタンもひとつの中国だぜいえー」なんて曲をやっちゃったりしたら―それはもう「政治利用だ!」と批判されるのは仕方が無いし批判しなければならないと思うけれど、日本で左巻きの人たちがお花畑から送ってくる電波は「政治利用」とはちょっと違う気がする。
それに日本では、ベトナム戦争に対する反戦運動と一緒くたになってフォークソングとかが輸入されてしまっているから、そう言うものだと刷り込まれてしまっているミュージシャンも多かろう。ベトナム戦争の頃の音楽に影響を受けたお年寄りアーティストたちがこの流れに乗って棺桶から出てきているようで、まるでお化け屋敷、納涼に丁度いいんじゃないかとも思う。

しかし、兎にも角にも個人的には政治に限らず社会問題とかを音楽に持ち込むとたいてい楽曲の出来が悪くなるという印象があって、好きではない。昔は愛していたはずのジョン・レノンの多くの曲なんて、いい歳になってしまうと、平和な場所から発せられるきれいごと、おままごとのポエムとしか思えない。
例えばパンクなら、ピストルズは―メンバーにひとり、本気にしていたくるくるパーがいたけれど―“つくられた”ビジネス臭が強すぎるし、クラッシュのメッセージは青臭すぎるから聴いていられない。しかしラモーンズはそうではない。でも、それゆえにラモーンズは素晴らしい。

ロックンロールは3分間のメロドラマに過ぎない。

と、30過ぎてから私は悟ったのだが、その後には「だからこそ純粋で美しい。」と続くのだ。

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