カラヤンとベルリンフィルのショスタコーヴィチ、交響曲第10番。

佐村河内守事件で、色々ネット上の記事など読むと、「交響曲第1番」との関連で、ベートーベン、ブルックナー、マーラーなどの名前が出てくる。「ショスタコーヴィチと同時期の無名作曲家の作品と言われたら、そう思ってしまうだろう」と言った主旨の記述も目にした。あるいは、「クラシック音楽のファンとか業界関係者なんてのは狭い世界であーだこーだ言っているだけで良し悪しを聴く耳など無いからこんな事件が起こるのだ」なんて書き込みもあった。

情報通信の発達した現代―インターネットが身近になった1996年頃と比べても飛躍的だと思うが―においてこんな事が起きた不思議にとらわれ目が離せなくなっていつつ、事件そのものにも、こうした(自分自身も含めた)野次馬たちの雑音にも暗い気持ちになり、どうにも耳や心が汚れてしまったような気になったので、ショスタコーヴィチの5番を聴いて心身を洗い清めたりしていた。
そして、仕事で取引先を訪ねて遅くなった帰りに梅田を通る機会があったので、タワレコに寄ると、カラヤン指揮ベルリンフィルのショスタコーヴィチ10番、二度目のデジタル録音のディスクが1枚だけ残っているのを見つけたので買って帰った。



歌謡曲もロックもあれこれ聴いてはいるものの、とどのつまり私はクラシックと言うジャンルにおいてはショスタコーヴィチとマーラーが好きなのだが、どちらの作品も、カラヤンとベルリンフィルのコンビはあまり取り上げていない。グラモフォンから正規の録音としてリリースされているのは、マーラーでは4番、5番、6番、9番(ライブとセッションの2種)、大地の歌。ショスタコーヴィチは10番だけだ。しかし何故かショスタコーヴィチの10番は、アナログ時代とデジタル時代の、2種の録音を残している。

帰路の電車の中、スマートフォンの充電が切れかけていたので手持ち無沙汰になり、この10番、DGオリジナルシリーズのCDの封を開け、小さなジャケットの内側にある英文の解説を斜め読みしてみた。

・この悲劇的な世紀において、もし自分が作曲家であったとすれば、ショスタコーヴィチこそ我があるべき姿であったろう、とカラヤンは言っている。
・ショスタコーヴィチの8番と10番を高く評価している。
・10番を作曲家の前で演奏したことは、カラヤンの人生における最も誇らしい場面であった。

と、かなり適当な意訳だが、そんなことが書かれている。8番の録音が残っていないのは残念だがさておき、まずカラヤンは、1966年にこの曲を録音しており、これは私にとっての10番の定番になっている。このコンビにおいては当然なのだろうが一糸乱れぬ統制、きりきりと絞り上げるような緊張感、スピード感に満ちた演奏だ。
そして3年後の、モスクワでのライブ録音―数年前に「カラヤン・イン・モスクワ」のシリーズでリリースされた―が、「10番を作曲家の前で」、と言う件の演奏だろう(カラヤンとベルリンフィルのコンビとは言え、1969年、メロディア音源となると、カラヤンのファンではない身には音質面が不安で手が出ない)。
この演奏は作曲家自身に賞賛され、タコさんは自分の曲がこれほど美しく演奏されたのを聴くのは初めてだと言ったとどこかで読んだが、そんなの当然だよとでも言いそうなカラヤンも、よほど喜んだのだろうか。

そして1981年、デジタルレコーディングの時代を迎え、カラヤンは再び10番を吹き込んだ。
聴く前には、デジタル録音のイメージから、より怜悧で硬質でスピード感のある演奏を勝手に想像していたのだが、完全に外れた。部分的にハイスパートな部分はあるにせよ、概ねゆったりとしたテンポでの懐の深い大きな演奏で、アナログ録音とはオケの規模からして違っているかのような印象を受ける。録音も、思ったよりアナログ的な温かみがあると言うか、響きが柔らかい。
慣れの所為だろうか、やや違和感を感じてしまったものの、先入観が無ければ、こちらの方が交響曲の醍醐味を感じさせる名演なのではないかと思える。
少なくとも今は、こちらの方が良い、とまでは思わないが、もう少し聴きこんで見たい。

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