桜宮高校の生徒自殺事件とS.J.ローザンの「冬そして夜」。

いやな渡世だなあ、と言うのは、勝新太郎の座頭市シリーズ、それも、映画ではなくTVドラマの方でよく出てくる台詞だったろうか。

大阪市立桜宮高校のバスケットボール部で、顧問の常習的な体罰に耐え切れず、主将を務めていた生徒が自殺した、と言う事件は、大阪に限らず全国的に大きなニュースになった。バレーボール部でも体罰があって、一度表沙汰になり、その後も同じ顧問による体罰が再度疑われたが、その当時の校長が調べもせずに無いと回答したものの実はあった、なんてことまで明るみに出た。こちらは死人は出ていないが学校の隠蔽体質が如実にさらけ出されてしまってもうぼろぼろだ。
それなのに、 橋本市長の入試中止や教職員の総入れ替えといった意見に対し、反対する、あるいは顧問を擁護する声が上がっているのはどうにも気持ちが悪い。日頃、橋本市長や維新の会の物事の進め方には薄気味悪いものを感じているが、今回は橋本さんを支持したい。

私が子どものころ、例えば三振したら「けつバット」なんてのは小学校でも当たり前だった。中学生の頃は柔道部だったが、部活動で体罰と言うのは無かったものの、普段の学校生活の中で何かやらかすと、びんたを食らう、指の関節を立てて頭頂部をぐりぐりやられる、わき腹を思い切りつねられる、そんなことは普通だった。悔悛の情を見せないとびんたがパンチになったり終いに足が出たりと言うこともあった。技術の先生は「精神注入棒」と名付けた角材の端だかなんだかを用意して、ご丁寧にも棒そのものに「精神注入棒」と書いてあったが、それで尻を叩く、あるいはあれは何の装置だったかよく分からないが電極を摘ませて電流を流したりもしていた。こっちがルールやマナーを守らなかったことに対して、痛い目にあったとしても、悪いのはこっちなんだから仕方が無い。それは当たり前の意識だったように思う。

だから今でも体罰と言うのに対し、度をわきまえてのものなら、あっておかしくないと考えている。悪いことをしたら痛い目にあうというのは、「子ども」に対してもっともシンプルに物事を分からせる方法かもしれないとも思う。

しかし、今回の事件でどうにも気持ちが悪いのは、舞台が「高校」だと言うことだ。高校生にもなって、殴られたり張り倒されたりすると言うのはなかったし、ちょっと考えられない。体格的にも先生と変わらなくなって、先生の方でも手を出すことが躊躇われるだろうし、それ以前に、痛みとセットでなくても物事を理解できる年になっているはずだ。体育会系の厳しさを身に染ませるためなら、殴るより罰として走らせたり、しばらくボールに触らせないとか、いくらでもやりようはあるはずだ。

この顧問は、誰か叱られ役を作ることで部全体を引き締めていて、その叱られ役は主将だったそうだ。死んだ子は、自ら立候補して主将になったと言うから、以前の主将が殴られたりしているのは見ているはずで、覚悟もあったろう。
しかし、この子は、この顧問に相対するには精神力が弱すぎたのかも知れない。あるいは、代々の主将に比べて何かまずいところがあり、顧問もこれまで以上に手が出てしまったのかも知れない。さらに言えば、私の頃よりも、今の高校生は「子ども」で、体で覚えさせざるを得ないのかもしれない。
だが、それならそうと、顧問の側が接し方を工夫すべきだったろう。駄目なら駄目で主将を外すなり、出来ることはあったのではないか。だがそうしなかったし、この人は「加減」を知らなかった。しかし、それで許されるものではないし、死ぬまで追い詰めると言うのは完全にいかれている。コーチとしての技術の無さを暴力で補っていた(この顧問は指導者として評価されていたようだが、こんなのは前近代の日本的な精神論を暴力に置き換える手法ではないか。サッカーが国際レベルに進歩したことで、、欧州に比して指導者の純粋な技術面の遅れが顕在化してきたが、これは他のスポーツでも同様だろう)だけではないのか。「愛情があった」から許されるべきだとか言っているOBは、たまたま耐えられたに過ぎないだろう。
しかし学校の強みだから、これまでも問題にならなかった。保護者もOBも、それを是として来た。遺族に会いに行って次の新人戦に出場しても良いかと尋ねたと言う校長なんて、最早狂人だ。隔離すべきだろう。


S.J.ローザンの「冬そして夜」は、ハイスクールのアメリカンフットボール部だけが名物の町で起きた悲しい出来事を扱った小説だ。この作品に出てくる人々の狂気と同じものが、入試中止反対、先生はいい人だと桜宮高校を擁護する人々から滲み出ているように思えてならない。

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