ドン・ウィンズロウの「サトリ」。

トレヴェニアンと言う作家がいて、その代表作が「シブミ」と言うスパイアクション。「シブミ」はそのまま「渋み」で、主人公は日本の精神の至高の境地である「シブミ」に達したロシア系の殺し屋というか殺人技術者だ。



「寒い国から帰ってきたスパイ」などと並んで古今のスパイ小説というかアクション小説の代表作のひとつとされていたりもするようだが、私はもともとそうした名作と捉えていたのではなかった。小林信彦さんの著作の中で、外国文化に対する誤解によって生じるギャグ(「シブミ」の場合は、それを意図したものではなく結果的に、だが)の先例(であり、「素晴らしい日本野球」などを生み出したきっかけでもあろうか)として扱われていたのを読み、トンデモ本、お馬鹿な珍品と言う認識で敬遠していたのだった。
それなのに、奥付が昭和62年なので20数年前になるのだろうか(追記:下巻の奥付は1997年だったので、15年前に買ったものと思われる)。他に読むものが無かったのか、何故か買って読んでみたようだ。あまり詳しく覚えていないものの、トンデモ本扱いするほどではないが、少なくとも奇妙なものではあって、日本人にとって傑作とは呼び難いと思った記憶がある。そもそも日本人にとって、「渋み」と言う言葉は、何かの最高の状態を表す言葉では無いし、殺人術にも精神の鍛錬にもあまり関わりの無いものであって、そこのところからしておかしい(トレヴェニアン作品としては、随分後に「バスク、真夏の死」を読んだが、これはおかしくも無い代わりにそんなに面白くも無かった)。

そんな作品の前日譚をウィンズロウが書いたというので、邦訳が出た時から注目はしていたが、元の作品が"まとも"ではないので手を出せずにいたところ、文庫化されたので思い切って取り寄せてみた。ウィンズロウがわざわざ手がけるあたり、「シブミ」は欧米ではそれなりの地位を得ているのだろう。



書棚から「シブミ」を取り出して、先に一度復習しておこうかとも思ったが、つい「サトリ」上巻を手に取ると、冒頭からどこがどうと言うことは無いが何故か引き込まれるものがあり、読み始めてしまった。
戦前の帝政ロシアの貴族の子として中国を経て日本に移り住み、日本人的な精神と「空手」を下敷きにしていると思しき暗殺術を身につけた青年が、戦後、CIAの要請を受けて註中国のソ連の工作員暗殺に赴くと言うお話。「デストロイヤー」シリーズに登場する朝鮮半島の架空の伝統武術「シナンジュ」ほどではないにせよ、その殺人術は些か誇大妄想的なものだ。しかし、トレヴェニアンが「シブミ」を書いた時代よりは東洋の武術に関する情報は広く伝播しているからか、描かれ方にはリアリティがある。くわえてちょっとだが八極拳や洪家拳が登場したりもするので、カンフー映画好きの私はにやりとさせられた。
そして暗殺だけに止まらず物語はめまぐるしく展開する。毛沢東時代の中国と、それを取り巻くソ連、アメリカの諜報機関や工作員が蠢き、さらに舞台は仏領インドシナ時代のヴェトナムへと広がって、フランスやマフィアも絡んでくる。その間読者をしっかりとひきつけてそのスピードに乗せて行くドライヴ感は如何にもウィンズロウらしい。上下二巻に分かれてはいるが、それほどの分量ではないので一気に読み終えてしまえるだろう、というか、途中で止められないだろう。オリジナルよりも素晴しいと感じるが、それを確かめるには「シブミ」を再読しなければならない。

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