オーマンディのショスタコーヴィチ、第10番。

ショスタコーヴィチの代表作は、交響曲であることは間違いないが、15曲のうちの一体どれだろう。

1~3番は習作的なもの、と考えてよいだろうか。
4番は、その時点で作曲家自身がキャリアの集大成として生み出した大作だが、当局に目を付けられるのを恐れて発表されぬまま眠っていたという逸話ばかりが目に付き、評価に色が付いてしまっているように思える。
5番はベートーヴェン以降の交響曲の典型的な作品ともいうべきもので非常に良くまとまっていて個人的には大好きだが、コーダに対する「強制された歓喜」の表現云々と言う解釈や、通俗名曲的な見方もあって、現在ではあまり評価が高くない。
6番は、5番と7番の狭間にあって、目立たない。ベートーヴェンの4番、8番の様な感じか。曲そのものも、あまり強い印象が無い。
7番、8番は、戦争交響曲という位置付けが、やはり先入観を与えることになっているが、7番の異様な構造と、その中にちりばめられた旋律や展開の雄大さは、他に無いショスタコーヴィチらしいものだ。戦争交響曲と言うレッテルをはがせば代表作と言ってよいのではないかと思える。
9番は第二次大戦の終結を受けてベートーヴェンの第九の様な大作が期待されていながら見事な肩透かし、15番も、最後の作品でありながらシニカルでつかみどころが無くこれも後世から見れば肩透かしの様な作品で、こうした予定調和を破壊する軽妙で諧謔的なところが、もしかするとショスタコーヴィチらしさなのかもしれないが、代表作と呼ぶのは難しいように思う。
11、12番は標題音楽、13、14は歌入りで、いずれも本流から外れているような印象がある。

こうして眺めると、標題や、制作時期、当時の社会情勢から来る背景の影響が無く、純音楽として作られたのは、4番と10番ぐらい、と無理やりこじつけることができそうだ。
カラヤンがショスタコーヴィチ作品の中で唯一レコーディングし、しかもデジタル録音の時代になって録音しなおしていることからして、この10番を、現代における交響曲のスタンダードのひとつと看做していたのではなかろうかと勘繰れなくは無い。

そんな10番を、オーマンディとフィラデルフィア管の演奏で聴いてみて。
先に聴いた4番と同様、音に厚みがあり、力感がある。1960年代の録音で、最新の録音の様な透明感や鋭さが無い。しかしこれはどうしようもないことで、マイナスにはならない。むしろ、厚み、力強さ、迫力、非常に素晴しい点を評価すべきだろう。
例えば第二楽章のスピード感は、カラヤンやムラヴィンスキーほどではない様に感じられるが、一方でこれを聴くと、カラヤンやムラヴィンスキーの方が走りすぎとも思えてくる。そして、聴いているうちに、オーマンディとフィラデルフィア管に対する、「ゴージャス」とか「精神性が無い」とか言った評価が何故生まれたのか、何となく分かったような気がしてきた。それは、彼らの演奏が「揺るぎ無い」からではなかろうかと。
コンドラシンの初演から1年半後で参考事例も乏しかったであろう4番も、この10番も、フィラデルフィア管は力強い音で破綻無く演奏している。そこには、迷いが感じられない。一定した解釈と安定した力量ががっぷり組んでいる。だから、揺らがない。シカゴ響よりも節度があるからだろうか、爆発的なものもあまり感じられないだろう。変なクセや迷いやミスによるブレが無いから、おやっと気になることが無い。妙ちきりんなところを、独特の解釈と読み違えられることも無い。
「厳しい演奏」という表現があるが、これこそ徹頭徹尾コントロールされた厳しい演奏なのではないか。そしてそれは、結果的にそう聴こえることがあるにしても、「ゴージャスなサウンド」などと言う浮ついた表現の対極にあるように思える。

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