金庸の「鹿鼎記」を読む。

金庸作品は、どれも複数回読んでいる。「笑傲江湖」や「射鵰英雄伝」は10回近く読み返しているだろうし、ハードカヴァーで買ってしまって持ち歩きにくい「越女剣」と「雪山飛狐」でも2、3回は読んでいる。
あまり読み返す気にならないのは、「書剣恩仇録」で、あまりに後味が悪いし、登場人物が皆愚か過ぎて腹が立つ。特に紅花会の幹部連中の間抜け振り、物分りの悪さはしばしば苦痛でしかない。まともなのは趙半山ぐらいだ。
「碧血剣」は主人公が出来過ぎでつまらない。加えてヒロインの青青はただの頭の悪い我侭娘で全く魅力がなく(ドラマではホアン・シェンイーが演じてさらに嫌な造形に成り果てていた。ジョウ・シュンなら我慢できたかもしれない)、帰辛樹一門の傲慢さ、蒙昧さにも辟易だ。
「神鵰侠侶」の楊過と小龍女のいかれバカップル振りには頭が痛くなるし、「倚天屠龍記」の張無忌のだらしなさにもフラストレーションが募る。
などと言いながら、まあそれでも面白いから何度も読むのだが、金庸作品の中で、「武侠小説」としては評価し難いし一般にも評価されていないだろうけれども、面白さにおいては、「鹿鼎記」がナンバーワンかもしれない。久々に読み返し、改めてその思いを強くした。



時は清代。主人公韋小宝は揚州の妓楼で働く遊女の息子で、行きがかり上北京に行き、偶々宦官に捕まって皇宮に入り、宦官に成りすまして偶然出会った康熙帝と仲良くなり重用され、一方で反清復明の秘密結社「天地会」のリーダーの弟子になり組織の幹部になり、綱渡りをしながら偶然とツキと浅知恵で、どういうわけか好意を寄せてくれる娘たちや江湖の好漢達に助けられて富貴を手に入れて行く。無学非才で腕っ節もからっきしでありながら、卑俗な悪口雑言と、芝居で覚えた古の武将の名場面から思いついた作戦で戦功を打ち立てたりする、あまりにも都合の良過ぎるお話だ。
他の金庸作品を勧めてファンになった男が職場にいるが、この作品は受け付けなかったと言う。そう言う人は多いのかもしれない。特に、武侠小説の中のヒーロー像と真逆で、信義を重んじず、金銭に執着し、色事に夢中になるあたり、主人公への共感が出来ず、不快感を覚えたとしても仕方が無い。
しかし、主人公を取り巻く王侯や大官、役人達とて、面従腹背とまでは行かずとも、綿裏蔵針、私利私欲に走りおべっかを使い、碌なものでないことに変わりはない。そういった連中を、底辺からやってきた大して取り得のない主人公が、蔑まれながらも乗り越えたり従えたりしていく様は、馬鹿馬鹿しいが、痛快でもある。
散々出鱈目なやり口で歴史に干渉した挙句、小市民的な欲望を解放しそれを満たし、一方困難からはあっさりと逃げ出して舞台から去っていく 韋小宝の姿は、まるで魯迅が描いた阿Qの裏返しのようだ。阿Qも韋小宝も近代中国の典型的小市民であり、前者は批判と痛哭の産物であり、後者は楽観と賛歌の賜物だが、彼我の差は運の善し悪しだけだろう。もちろん魯迅と金庸が置かれた時代と立場は全く異なるから、主人公に与える運命にもそれが反映されているのだが。
つらつらと考えるに、この作品は、征服王朝であれ共産党であれ封建主義であれ戦国時代であれ、何者に支配されようともけして滅びることのない(一人ひとりは滅びるとしても)小人の逞しさを描いた御伽噺なのだ。金庸さん自身もあとがきで、最後の武侠小説とは言いつつも、寧ろ歴史小説と呼ぶべきかと呟いている。武侠小説だと思うから違和感があるのであって、そうではないと思えば良い。郭靖や令狐冲のことはしばし忘れ、大いに楽しむべきではないか。

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