「倚天屠龍記」の誤訳について。

読んでいれば分かる、と言いつつ、初見では分からなくて困るのだろうが、金庸の武侠小説「倚天屠龍記」には、勘違いと思われる誤訳がある。万一未読の人がたどり着いたら、以下はネタバレであるからご注意いただきたい。

倚天屠龍記/誤訳問題(Wikipedia)

「射鵰英雄伝」「神鵰侠侶(邦題:神鵰剣侠)」に続く、「射鵰三部作」の最後の作品であり、物語の発端は前作から少し時間を空けて続いている。
そして、宗教も絡んだ武術の門派間の争いの中に、奥義、秘伝の類が登場するのだが、ストーリー上最も重要な二つの秘伝、「九陽真経」と「九陰真経」の名前が似ているために、このようなことになっている。それぞれの秘伝については下にざっとまとめておくが、さらに簡潔にまとめると、

・九陰真経:「射鵰英雄伝」の郭靖が全体を習得。→「神鵰侠侶」の時代とその後で郭靖の家族や楊過夫妻に伝わる。→「倚天屠龍記」の導入部とその後の間ぐらいの時点で郭靖夫婦は亡くなるが、こっそり後世のために残す。→それを後に「峨嵋派」の周(くさかんむりに止)若が入手し、「九陰白骨爪」など手っ取り早く覚えられる部分を身につける。三部作完結時点で習得しているのは、周(くさかんむりに止)若と、楊家の末裔のみ。

・九陽真経:「神鵰侠侶」の時代に少林寺で覚遠によって発見される。→秘伝が記された経本は盗まれるが、暗記していた覚遠から弟子の張君宝と郭靖の次女郭襄に、それぞれ断片的に伝わる。→ 張君宝と郭襄が後にそれぞれ興した「武当派」、「峨嵋派」にも当然一部が伝わるが、ごく断片的なものでしかない。→数十年後、張無忌が盗まれた経本を発見し、全てを身につける。その後、他に伝わったと言う記述は無く、最終的に全て習得しているのは無忌のみ。

ということになろうか。
九陽真経に関しては張無忌が身につけてその後は何も展開がない。武当派の「武当九陽功」を除けば、無忌以外が「九陽」と名が付く技を使うことは無いと考えてよいだろう。少なくとも周(くさかんむりに止)若と、楊家の末裔である「黄衫の女」 が「九●」と付く秘伝、技を使っていれば、それは皆「九陽」と書かれていても「九陰」が正解だ。また、趙敏が周(くさかんむりに止)若から盗んだ秘伝を読んで無忌が感心する場面では、それが「九陰真経」であることは言うまでも無く明白だ。
最初はわけが分からないが、三部作全てを一度通読すれば、どこが誤訳かすぐに気づくようになるだろう。

明教の武術家を倒すためにまとめられた「九陰真経」を、「水滸伝」の梁山泊の好漢であり、明教の方臘を討伐に行って命を落とした地祐星・賽仁貴郭盛の子孫である郭靖が身につける。
そして、後の時代の明教の教主となった張無忌が「九陽真経」を身につけ、「九陰真経」を入手した周(くさかんむりに止)若と戦ったり共闘したり。
子供のころから水滸伝が好きな自分にとっては、こうしたつながりも「射鵰三部作」の魅力のひとつとなっているのだろう。


「九陰真経」

「射鵰英雄伝」に登場する、作中時代(南宋、13世紀前半)における最上の武術秘伝。北宋末期、徽宗皇帝の命で道教の書物を集成した黄裳と言う人物が、書物を研鑽しているうち自ずと道家の武術を身につけ、やがて明教(マニ教、喫菜事魔)一派の武術と対抗するために編んだ。
上下二巻の書として残されており、物語開始時点から遡ること数年前、華山で行われた腕比べ「華山論剣」を制した全真教教祖である王重陽が手にした。王重陽の死後は、弟弟子である周伯通に委ねられたが、下巻は黄薬師夫妻に計略で奪われた。その後、黄薬師の弟子陳玄風と梅超風が盗んで逐電、さらに梅超風からそれと知らず盗んだ朱聡を経て、主人公である郭靖の手に渡る。
なお、下巻だけでも強力な技は身に付くが、最も重要な部分が欠落しており、至高の武術とはならない。
一方、上巻は伯通が守っていたが、兄弟子の遺訓で彼自身は学んでいなかった。郭靖と伯通が出会い、伯通は郭靖がそれと知らず「九陰真経」下巻を持っていることに気づき、自分は学ぶことが出来ないが人に覚えさせるのは構うまいと、上下巻とも郭靖に覚えさせた。
一部分は中国語を梵語に訳した上で音を漢字表記してあり、全く意味不明だったが、郭靖は丸暗記し、後に一灯大師と天竺僧の協力で理解することが出来た。この部分は内功(内力とも。体内に気をめぐらせ発揮する力)の奥義について記されており、これを指して「九陰真功」と呼ぶ。郭靖の師匠である洪七公は、宿敵欧陽峰に攻撃されて失った内功を、「九陰真功」で回復させている。
また、郭靖がところどころ書き換えた偽の「九陰真経(九陰仮経または九陰偽経と呼ばれる)」を修練し続けた欧陽峰は、発狂しながらも独自の究極的な武術を身につけてしまった。

続く「神鵰侠侶」の時代では、主人公で、郭靖の義弟の息子である楊過と、その師匠であり後に妻となる小龍女が、王重陽が残した記述を偶然発見し、部分的に「九陰真経」を身につけることになる。さらに、後の「倚天屠龍記」のエピソードから、彼らは作品終了後のいつかの時点で郭靖夫妻からさらに詳しく伝授されたと推測できる。加えて楊過は欧陽峰の義理の息子でもあるので、経絡を逆転させるなど、偽「九陰真経」に由来する武術も多少身につけている。
また、前作に続いて登場する郭靖夫妻は確実に「九陰真経」の武術を習得しているが、その子どもたちや弟子に関しては明確に記されていない。他に内容を知っているはずの周伯通(「射鵰英雄伝」では、一度覚えてしまったが忘れたとある)、一灯大師、黄薬師らについても不明確。ただし、彼らには自ら編み出した武術に対する矜持があり、知っていても使わないと言う設定かもしれない。

「神鵰侠侶」で小龍女に次ぐヒロイン的な役割を果たした郭靖の次女、郭襄が導入部分で重要な役割を担うのが「倚天屠龍記」である。郭襄は両親から「九陰真経」を学んでいるようだが、それが生かされている描写はない。後に門派「峨嵋派」を興しているものの、そちらにも難しすぎて伝わらなかったと言う。郭襄はひとつのことに打ち込めない性格とされ、このことが災いしたのかもしれない。
郭襄が退場し、やがて物語は一気に数十年を経て、すでに郭靖と黄蓉がモンゴル軍に対し討ち死にして久しい、元朝の末期へと飛ぶ。「九陰真経」の名は伝説的なものとして残っているが、その武術の使い手はおらず、失われたと考えられている。
しかし郭靖夫妻は死に臨んで一対の刀と剣を作り、刀「屠龍刀」の中に岳飛が残した兵法を、剣「倚天剣」の中に「九陰真経」と郭靖の得意技「降龍十八掌」とを、それぞれ特殊な絹に記して封じ込めていた。が、そのことはごく一部の人間しか知らず、一般には最高の宝刀と宝剣と看做され、秘密を知らぬまま奪い合いが起きる状況になっていた。
倚天剣はモンゴルの王族が持っていたが、峨嵋派が奪い返し、また奪われるが峨嵋派の元に戻る。屠龍刀は持ち主を転々とした後に主人公張無忌の義父、謝遜の手に落ちるが、これもついに峨嵋派の手に渡る。峨嵋派の掌門である周(くさかんむりに止)若は密かに刀と剣を打合せて両断、中身を取り出し、黄蓉がまとめておいた「九陰真経」の促成の技を身につける。その代表的な技が「九陰白骨爪」で、かつて梅超風が得意としていたものだ。
この「九陰白骨爪」は、楊過と小龍女の子孫と思われる楊姓の「黄衫の女」も使って見せる場面がある。郭靖夫妻から楊家に伝えられ、終南山に隠棲した楊家で代々密かに伝えられていたものと思われる。


「九陽真経」

「神鵰侠侶」のエピローグ的な部分に登場する武術の秘伝。 少林寺の蔵書「楞伽経」の行間に書き加えられ、人知れず残されていた。と言っても、技に関する描写は無いので、「内功」のみについて書かれているという設定かもしれない。登場人物で伝説上の太極拳の祖である張三豊は、仏教系の少林寺の武術よりは道家の武術に近いと感じ、中国に経が渡って来て後に、中国の武術の達人が書き残したものと、作中で推測している。
少林寺で経本を管理する僧、覚遠が、様々な経を読み尽くすうち、それと知らず覚え身につけるとともに、弟子の張君宝、後の張三豊にも学ばせていた。覚遠は少林寺にありながら武術は修めておらず、「九陽真経」については建康に良いと言う認識だった。
しかし、「神鵰侠侶」に登場する悪役二人が偶々「楞伽経」を開いて秘伝を見つけ、経を盗み出す。二人は覚遠と張君宝に追われるが、猿の腹の皮を割いてその中に経を隠し、西域まで逃げてしまった。

次作「倚天屠龍記」に移り、その導入部、紆余曲折あり、寺の掟を破ったとして危地に陥った張君宝を庇って覚遠は亡くなるが、いまわの際に「九陽真経」を「楞伽経」と交えながら暗誦、その場に居合わせた郭襄が断片的に覚えることになる。その後張君宝は武当山で「武当派」を興し張三豊となり、郭襄は「峨嵋派」を興し、それぞれの門派に断片的にではあるが「九陽真経」が伝わる。
なお、後に弟子、張翠山の息子にして主人公である張無忌の命を助けるため、お互いが知る 「九陽真経」 を教えあって補おうと、張三豊が少林寺に出向く場面がある。しかし、覚遠と幼少時の張三豊以外、少林寺では誰も「九陽真経」の存在を知らなかったはずであり、これは、もともと経があった少林寺にも伝えられているだろうと言う、張三豊の思い込みによる行動だったと思われる。

さらに時を経て、張無忌が、偶然にも崑崙山方面で腹に異物があって苦しんでいる猿を助け、その異物、実は「「九陽真経」を手に入れる。無忌は余命わずかだったが、三豊から完全な「九陽真経」を習得すれば己の建康が取り戻せるだろうと聞いていたので、その全てを学び、身につけ、建康を取り戻すとともに最上の内功を獲得した。
「九陽真経」によって身につけた内功を指して「九陽真功」と呼ぶことがあるのは、「九陰真経」の場合と同様だ。

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