カラヤンのマーラー第9番、スタジオ録音。

カラヤンのマーラーは聴いたことがない、というか、オンラインで聴いてみたりはしているものの手元には1枚も持っていない。
カラヤンには人気者の宿命か、多くのファンとともに多くのアンチがおり、例えばマーラー演奏についてだと、同じベルリンフィルとの9番でバーンスタインと比較され、ひどい謗りを受けているのをしばしば見かける。しかしバーンスタインとベルリンフィルの録音に手持ちの9番の中で最低の評価を下している私にしてみれば、そうした批評は全く意味が無い。あるいは、カラヤンのみならずオーマンディやショルティの批判にしばしば使われる「精神性」という言葉を持って、彼らの演奏にそれが欠けているだの何だのと言う批評については意味がよくわからない。
つまるところ、私自身は別に嫌っているわけでも避けているわけでもないのであって、偶々縁が薄かったのだろう。で、先日たまたま9番の日本盤が安くなっているのを見かけたので注文した。カラヤンの9番には1979年~80年にかけてのセッション録音盤と、82年のライヴ盤があり、概ねライヴの方が評価が高いようだが、これはセッション盤。2枚にまたがり、余白のカップリングはシェーンベルクの浄夜だ。


ベルリンフィルとウィーンフィルが、世界的な二大オーケストラなのだろうが、自分の感覚では、柔らか、ふくよかで艶かしいが高音がピーキーで耳につく、というのがウィーンフィルで、鼻につくことが多い。一方、折り目正しく重厚で、やれば出来るけれどやりすぎないのがベルリンフィル、と言う認識。しかし、上手くのせられるとやれば出来る。そして常にやるべきことを思い切ってやるのがシカゴ響、もう少し節度を持って精度に振ったのがフィラデルフィア、クリーブランドやボストン、やりたくても本拠地が小規模で窮屈な思いをしているのがNYP。勝手に抱いている印象だ。
聴いてみると、ひとつの徹底した美意識の元に音楽が構築されていくのはわかるのだが、何となく安全運転にも聴こえる。第2楽章で少し温まってきたような感があり、第3楽章でようやく生き生きとした演奏になるのだが、終楽章でまた安全運転に戻る。ゆったりと、息の長いフレージングで弦は美しく響くが、間延びしているようにも聴こえる。そして、あれ、やらかしたのか、落ちてる?という場面もあったりして、行ける所まで行こうと引っ張ったらオケの方が酸欠になっちゃったのかなあという、ちょっと残念な雰囲気が漂うことに。

聴き終えてすぐに、バルビローリとベルリンフィル、バーンスタインとベルリンフィル、バーンスタインのNYPと、DAPに入っていた3種の録音で同じ場所を聴いてみたら、バルビローリのものが一番ましではあったが、どれもちょっと綺麗には処理できていない個所だった。とはいえ、このカラヤンの録音が様子がおかしいことには変わりない。弦の厚みや響きの美しさはベルリンフィルの本領発揮と感じるのだが。

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