コンドラシンのショスタコーヴィチの5番。

ショスタコーヴィチに興味を持ったのは、FM雑誌の広告で見た(見ただけで聴いていない)、バーンスタイン指揮NYPの、東京文化会館でのライヴLPが最初だったと思う。1980年だったか、そこのところは定かでない。
デジタル録音が出始め、話題をさらっていた頃で、DENONはPCMでスメタナ弦楽四重奏団のドヴォルザークや、スイトナー指揮のベートーヴェンのシリーズを発売し、SONYはこの5番や、メータのツァラトゥストラを次々に繰り出していた。輸入盤ではTELARCがダイナミックレンジの広さで驚愕を持って迎えられていた。
色々と手に入れたくなるディスクがあって、こっちはクラシック入門者で、しかも使える金は豊富でなく、ローリング・ストーンズやヤードバーズやドゥー・ワップなども並行して追わねばならず、バーンスタインの5番は後回しにし、やがて忘れた。
ショスタコーヴィチのことをふと思い出したのは、90年代、CDを少しづつ買い始め、結婚して引っ越すついでにアナログ盤を売り払い、クラシックを再び聴き始めてからだった。まだアメリカ村に店舗があったタワーレコードで、コンドラシンの5番を手に取った。ジャケットのデザイン、シンプルに抑えた配色、書体など、ほぼ見た目だけで惹きつけられた。



そして以後、計10枚となる全集の分売を、ぽつりぽつりと揃えていくことになる。その時はボックスセットは見かけず、揃えて暫くしてからショスタコーヴィチの自演録音の特典ディスクを含めたセットが出ているのを発見した時はちょっと悲しかった。

あらためて聴くと言う感じではなく、この録音はしばしば聴いているので、特に感想と言うものが無い。コーダのトゥッティで音が潰れているのがどうしようもなく残念だが、それを除けば録音は我慢できる範囲。演奏に関してはこれが自分にとって5番の基準なのだから文句の言いようが無い。ムラヴィンスキーの終楽章が速すぎると感じ、バーンスタインはもっと速すぎで笑いそうになり、アンチェルの設定に違和感を感じるのもすべて、この録音を物差しとしているからだ。全曲を通じてエネルギーは満ちているが、妙なところ、恣意的に臭いところが無く、けして過剰に盛り上げようとはしない。終楽章もゆっくりと始まり、コーダも速くならず、爆発はするが、ペースは落着いている。社会主義体制の勝利とか言った妙な華やかさは無く、かといって「証言」以後の「強制された歓喜」とも当然無縁だ。古典回帰した交響曲の終楽章として当たり前のように盛り上がるだけだ。
他の曲の印象も合わせて考えてみるに、コンドラシンこそ、すでにソヴィエト時代において、イデオロギーだの何だのを拭い捨ててショスタコーヴィチに純音楽的アプローチを行った先駆者だったのではなかろうか、なんて大層な事を考えてしまう録音だ。

コメント

人気の投稿