整理していたら出てきたメモから(1)。

数年前に何となく忘れぬよう書いておいたもののようだ。なんだか怒っている。

北方水滸伝というのが人気を博しているらしい。
三国志は正史を題材にすればいくらでもアレンジしてよいはずで、そういう作品はあちこちにある。北方自身も書いている。史料を紐解き「三国演義」にない人物像を掘り起こして「三国志」を書き直すのは、あり、だろう。漫画だが「蒼天航路」はそのすばらしい成功例だ。
しかし水滸伝はそもそもがフィクションであるから、たとえ講談やらなにやかやが数百年をかけて集成融合され、ある特定の作家が書いた完全な決定版というべきものがないにしても、容輿堂の忠義水滸伝百回本、楊定見版百二十回本という、スタンダードとされるものがあるわけで、それらをもってひとつの作品と呼ぶことは出来ると思うのだ。
したがって北方のような方法で現代の作家が「水滸伝」を書くというのは、日本の古典で言えば源氏物語や東海道中膝栗毛を登場人物の設定やストーリーを変えつつも時代背景そのままにいちから書き直すに等しい行為ではないのかと思えてならない。

これが「絵巻水滸伝」のように(アレンジを加えすぎていると感じる部分もままあるが)骨子そのままに登場人物の背景などを付加していくというのならまだ許せると思う。舞台、時代設定を変えてのものやパロディ、筒井康隆の「俗物図鑑」、あるいは「ホビットの冒険」から「ノービットの冒険」を書いたりとかも大ありだ。あるいは他の形式、映画などにする際にアレンジを加えるというのなら、たとえばNHKの人形劇「八犬伝」が「南総里美八犬伝」以外の馬琴作品からストーリーを加えていたりとかというのも、許容範囲だろう。「真夜中の弥治さん喜多さん」とかも、いいんじゃないかと思う。

しかし、北方水滸伝では、武松が兄嫁と寝てしまったり、楊志が斧振り回したりとか、それよりなにより梁山泊一党が革命軍として宋朝と全面的に対立したりとか、どうもそういう内容らしいのだが、なんだか俺の楊志や武松になにさせてんだこのタコ!という感じだ。
作品そのものの出来がいかに良かろうと、読もうという気にもならないし、水滸伝を名乗っていいものか、と、焚書されればいいのに、とさえ思えるのだ。
Web上にあった作者の対談の中で、「(水滸伝には)七十回本、百回本、百十回本、百三十回本といろいろあるんです」といっているのを見て、かなりショックを受けた。110回本とか130回本とはいったいどのようなものだろう。その程度のこともちゃんと語れない人が水滸伝を書き改めたのかと。
せめて、「○○水滸伝」とか「水滸○○伝」とか、本屋で背表紙見たときに「これはちょっと別物ですよ」と語りかけるようなタイトルになっていれば、許せるのだが。

それからついでだが、数年前だろうか、レコード屋というかCDショップに行くと、「ビートルズの新作」と書かれた看板が立っていて、それを見るたびに36年前に解散してメンバーが二人も死んでるバンドの新作なんてあるわけねえだろう!とむかついてしまうことがあった。会社の部下によるとそのCDは新作でもなんでもなく、シルクドソレイユかなにかのために編曲しなおされたサウンドトラックだそうで、それならそれで別にいいとは思うのだが、それを「新作」と称して詐欺まがいの商売をする日本のレコード会社、あるいはそれを書いたコピーライターとか、いっぺん死んで来い!と思えてならなかったことも記しておこう。

どうも、なんでもあり、やったもんがちの国になってしまっているんだな。
というより、こっちが年取って頑固に、原理主義的になってしまっているのかな。
おにぎりが食べたいんだな。

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