マーラーの9番は「死」なのか?

今聞いているマーラー全集で、交響曲第9番はバルビローリ指揮ベルリンフィルのものが選ばれており、それは自分にとって既に愛聴盤であるから、こと9番に関しては今回新しい収穫は無かったことになり、そう思うと、また何か新しい録音が聴きたいなあと物欲がニョロリと鎌首を擡げてくる。

で、ショッピングサイトを眺めたりしていると、ユーザーレビューでどうにも「死」という文字が目に付いたりして、気になって仕方が無い。
楽譜の終楽章の最後の部分に「死に絶えるように」という指示があるという事やら、本来9番になるはずの作品を「大地の歌」としてベートーヴェンらにかけられたとされる9番の呪から逃れようとしたという逸話やら、次の10番を完成することなくマーラーが亡くなったりしている事やら、「死」に結び付けやすい要素はあれこれあるようだが、結局のところ曲に接して、私自身はどうにもそんな感じがしない。しないから、他人様の感想の幾つかは理解できず、参考にできない気がして困るのだ。
確かに「1楽章の波が寄せて返すような調べに身を任せたまま死を迎えられたら気持ち良く成仏できそうだな」と思うことはあるが、陽気に転じた2楽章、嵐が来て去っていくような3楽章を経て終楽章を迎えると、こびり付いた垢やら胸に沈殿した澱やら何もかもが浄化され昇華して、終に安らぎを得て、むしろリフレッシュ、再生、あるいは希望を感じるのだが、これは私の感覚がおかしいのだろうか。

と、ここまで考えて、先般亡くなったデニス・ホッパーに向けてランス・アームストロングが記したツイートを思い出した。

RIP Dennis Hopper.

これだけ。RIPすなわちRest In Peace、安らかに眠れと。そうかそうか、キリスト教的な感覚では、死は永遠に平安を得ることであり、神に召される無上の喜びであると。しかし仏教や神道が綯い交ぜになった世界に生まれ育った身には、平安は現世でも得られるものだという、むしろ得るべく精進すべきものだという感覚がある。悟り、涅槃の境地だ。仮にマーラー自身が死すなわち平安をイメージしていたにせよ、日本人である私はその平安を現世で享受し明日への糧にしてしまうのだ。その違いだ!

なんて考えつつ、ではネット上のレビューでマーラーの9番に死をイメージすると書いている人たちが皆キリスト教徒なのかと言えばそんなことは無さそうだし、やはりこっちの感覚が変わっているのかと、堂々巡り。

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