扇遊・文之助二人会

一年ぶりの入船亭扇遊師と桂文之助師の二人会。先日繁盛亭で笑福亭福笑師の「厩火事」を聴き、この会の扇遊師の演目も「厩火事」。東京と大阪の違いはあれど、6日間で二度「厩火事」を聴くことになったわけだ。

開口一番は桂米二門下の二豆さん。米二門下だそうで、二葉さんの弟弟子だろうか。そつなく笑わせるマクラから「やかん」だったが、これが圓生のCDなどで聴くのとはずいぶん違って、ウナギの由来なんかは同じだがやかんの由来のところに来ると、川中島の合戦を講談調で滔々と語るのだ。まるで「金明竹」や「寿限無」のようだ。
その分、取っ手のところがどうとか注ぎ口のところがどうとかいう知ったかぶりのこじつけがカットされていて軽妙さは薄れるが、聴きごたえはあるからこれはこれで面白いとも言える。どういう由来でこういう型ができたのだろう。

続いて扇遊師の一席目、「厩火事」。CDで何度も聞き込んできた噺で、ああ、扇遊師の厩火事だなあ、という印象。先日の福笑師のお崎さんよりも感情の転換が激しくて、怒ったり笑ったり忙しく、エキセントリックな造形だ。してみると、福笑師のお崎さんはもっとウェットで、より一途な印象で、それはなんだか上方らしさなのかなとも思えてくる。
亭主の演出は、ちょっと照れているようなCDよりもあっけらかんとしていて、福笑師の演出にも通ずるもの。やっぱりそのぐらいの方が湿っぽくならなくて良いのだろうか?
それにしても、扇遊師がおかみさんを演じるとやはりすごい。お崎さんが仲人のところから自宅に戻って亭主に声をかけるところ、その仕草、声色にしびれた。客席も沸いた。

文之助師の一席目は「住吉駕籠」。東京版の「蜘蛛駕籠」は聴いたことがあるが、こちらをちゃんと聴くのは初めてだ。駕籠かきと冷やかしや客とのたわいもないやり取りの連続を、じっくり聴かせる熱演だったが、駕籠かき二人の演じ分け、特にボケた方から師である故桂枝雀を感じた。TVで数回高座を見たぐらいで、それほど枝雀の芸に接したことは無いのだが、一般的な枝雀の印象というのはそれなりに残っていて、それが何度か蘇ってきた。
元は上方のネタだったそうで、東京のネタだと概して金のない長屋の住人たちが金の代わりに知恵を絞りだしていたずらを仕掛けたりするのだが、懐に余裕のある商人がふざけるあたり、なるほど大阪らしい。

中入りを挟んで文之助師の二席目は、月亭希遊さん作の「幼稚演児」。今日のラインナップに新作が入るとこれはこれで面白い。終演後に気づいたのだが、笑えて、短めで、軽い噺をここに持って来られたのは、トリに向けてお客を疲れさせず温める見事な布石だったのだろう。

そんな文之助師のアシストを受けての扇遊師の「明烏」、CDを持っているし、二年前の5月に入船亭一門会で聴いていてその時も良かったとは思うのだが、どこがどう違うのかよくわからないけれど、すごかった。クライマックスに向けて舞台の上から客席まで、ひとつの世界が広がり出来上がっていく。ついには明るく楽しく、誰もが時次郎を微笑ましく見守りながら笑っているようだった。明烏ってこんな楽しい噺だっけ?と訝しみつつ私も笑う。皆がそこに吉原の廓の一室を見ていた。
立川談志はいろんな屁理屈をこねた挙句最後に「落語はイリュージョン」と言ったそうで、私が曲解しているのかもしれないが、私はそんなの当り前で、圓生の佐々木政談は江戸のお白州を現出させるし小さんの笠碁では被ってもいない傘から雨水が滴る気にもなる。上手い噺家さんはみんなそれができているんじゃないか、と思っていて、そういうところが、自分の「粗忽長屋」は「主観長屋」だとか言って志ん朝に「普通にやれないだけだろ」と切り捨てられた頃から変わってないんじゃないかと思ったりもする(そういうあがきの連続が談志の魅力でもあるのかもしれない)が、それはさておき、兎に角この明烏はまさにイリュージョン、素晴らしかった。例えば廓のおばさんがいい味で、いいアクセントになっていたりして、そういうちょっとした登場人物まできちんと描き切るところがやはり大事なんだろうな、神は細部に宿るなと、そんなことも思ったりするのだが、そうした技術だけではない何かがあった気がしてならない。

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