福笑の朝だ。落語だ。繁昌亭! 4
落語会に行くと、たいてい出演者の別の会のチラシを渡される。開演までにそれらに目を通すのがある種ルーティンのようになる。
笑福亭福笑師の「お笑い怪談噺の夕べ」でもらった中に、約1か月後の「福笑の朝だ。落語だ。繁昌亭! 4」のチラシがあり、演目が非常に気になったのだが、繁盛亭のチケット売場は閉まっていたので後日セブンイレブンでチケットを買った。
桂おとめ アタック!ナンバ一番
桂九ノ一 狸の化寺
笑福亭福笑 素人板場
笑福亭たま 寝床
仲入り
笑福亭福笑 厩火事
九代入船亭扇橋や圓生のCDで聴きこんだ寝床と、入船亭扇遊師のネタの中でも特に好きな厩火事。それをこの師弟で一度に聴けるというのはなかなか貴重な機会ではなかろうか、と思ったのだ。
おとめさんは初めて聴く。五代目文枝の弟子である桂あやめ師の弟子で、入門して8年目。マクラで自虐ネタにされていたが、年齢はよくわからない。このネタはあやめ作だそうで、後の出演者が強烈なのでこのぐらいのネタをやらないと、とのこと。昭和の名作スポコンアニメ「アタックNo.1」のパロディで、とにかく舞台上を動きまわる激しいネタ。なるほどこれは印象に残る。あさっての位置に飛んでいた座布団を直すのが妙におかしかった。
続いても初めて聴く、九ノ一さんは桂九雀師の弟子、つまり故枝雀の孫弟子だ。入門して9年目だから東京でいうところの二つ目か。マクラでは昔、若手落語家のコンテストで、東京の古今亭志ん輔師に講評してもらった時の話を紹介していたのだが、この話が次のたま師のマクラにつながっていく。
志ん輔師には時々言葉があいまいになるけど、それでいいと思っているのではないかと指摘されたそうだが、明瞭で切れの良い話っぷりは小気味よく、四角い顔も印象的だし、なかなか良かった。
ここで福笑師の一席目、素人板場なのだが、後の厩火事で話すマクラを話し始めてしまったらしく、ふと気づかれて自ら正直に打ち明けられ、リセットして別のマクラから噺に入られた。その後は聴いている側にはいつもの福笑師らしい擽りの連打でしっかり笑わせていただいたが、ご本人にはなかなか厳しい高座だったようだ。
たま師は寝床。圓生や九代目扇橋のCDで聴きこんでいるが、浄瑠璃がモチーフになっていることからわかる通り、元は上方のネタだ。
マクラでは志ん輔師の話から、東京と大阪の師弟関係の違いなどに触れつつ某一門のパワハラ裁判へ。なるほど寝床の旦那のやっていることも、今でいえばパワハラだ。
東京でも一門によって差異はあるが、この寝床はかなり異なった印象だった。まず番頭が旦那に、旦那が謡う浄瑠璃の会に町内の連中は誰も聞きに来ませんよと、報告するのだが、東京版の番頭と違って、番頭があまり旦那に気を使わない。町内の面々の断わりに込められた皮肉をそのまま旦那にぶつける。東京の奥歯にものが挟まったような言い訳に苦心惨憺する番頭の様子を笑うのではなく、旦那という権威をズバッとこき下ろす様子を笑うのだ。もちろん旦那は憤慨し、東京版と同様、店子は店立て、奉公人はクビにする、となる。この流れでは旦那に気を取り直させるのはかなり難しそうなのだが、そこでお嬢さんが登場する。旦那の浄瑠璃はすばらしいがこのままではこれ以上上達しない。だからだれか悪者になって、下手だまずいと言って発奮させようとしたのだと。これで旦那は泣くほど喜び、店子も奉公人も一安心だが、今度は恐ろしい旦那の浄瑠璃を聞かねばならない。そして、さあこれから旦那の義太夫が始まるというところで、前段終了となった。「カムチャッカ」とか「義太熱」といったギャグは無く東京のものより擽りが少ない印象で、展開的にもこちらのほうが自然ではあるというか理にはかなっている気がする。もっとも、古典に手を加えるに積極的なたま師なので、どこまでが上方の形で、どこからオリジナルなのかはわからない。
トリは福笑師の厩火事。先の一件を踏まえて、舞台に上がって最初の2~3分でうまくいくかどうか決まるんですが…というお話から、先ほどとは別のマクラを振って、江戸の噺です、楽しい噺です、と一言添えてネタに入られた。
細部に違いはあれど、おおむね東京版を踏襲しているのだが、髪結いのお崎さんの人物造形が、なんとなく違って聞こえる。「孔子」を「幸四郎の弟子ですか?」と聞いたり「珍客」を「狆客」と取り違えたりする部分がないせいだけでなく、エキセントリックなお崎さんも大阪弁をしゃべっていると、そこらに普通にいそうに思えてくるような気がしてくるのだ。
そしてクライマックスの亭主とのやり取り、例えば扇遊師の場合だと、なんとなく照れたような口調で亭主に喋らせて、ただ女房を金づるとしてみているのではなくそこには愛情もあると感じさせるサゲで、私はこれが大好きなのだが、福笑師のサゲは、どっちだろうな?という印象。聞き手に委ねるということだろうか。
追記:つらつら考えて、飯の支度までして女房の帰りを待っている亭主に愛情が無いはずは無いからそれ以上の演出は不要、という可能性もあるのではないかと思った。それでも、そこまでしてでも金づるを手放すまいとする悪党、という可能性も否定できないが、さすがにそれは酷過ぎるので無いと思いたい。


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